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Round Table

感情の言語化

 言葉で飯を食うと決めたのに、気分が乗らないと何一つ書けない。
書けば書いたで、いつも器用にまとめただけの自己欺瞞となる。本当はこうじゃない、これは後付けの解釈だ、といっぱしの芸術家気取りで破り捨ててしまう。

 悲しい気分の時は悲しみに満ちた文章を書きたいし、面倒臭いときはいかに面倒臭いかを言葉で表わしたい。複雑な心境のときは「複雑な心境」などという表現を使わず、詳細を理解できるような形で記したい。しかし文章へまとめれば当時の感情は記号として整理され、分かり易く意味付けされて、本来の形を失ってしまう。言い回しが上手い下手の次元ではなく、言い回した時点で別物となってしまう。
状況説明を残せばある程度の追体験はできるだろう。比喩表現を使えばそれなりの想像も許されるだろう。しかし今ある自分の実感は、もう二度と取り戻せない。

 それは文学の限界なのか、あくまで自分個人の限界なのか。そもそも自分は感情を整理したいのか、剥き出しのままぶつけたいのか。何をしたいのかよく分からなくなってきた。文学が芸術と呼べるのかも分からないが、そういえば芸術が何なのかも分からない。泥沼である。

 さて、先日知人からキーボードをいただいた。特に弾ける曲も無いが、音を出すだけで幸せな気分になる。
文字を持たない人は沢山いるが、音楽を持たない民族はどこにもいないらしい。私は音楽の偉大さに嫉妬する。

06-01-24 8:48 , 日誌

Commentaires

2006:01:29:00:03:17

「衝動」というものの表現について。

衝動の表現というのが、文字では特に難しいと思う。


爆発する衝動をそのままに伝えることができるのが
音楽の強み。
リアルタイムで動き続ける感情に、
僅かな位相ずれで音楽は追従する。
あるいは、位相ずれなんてものが存在しない場合だってある。


文字にするというのは、そういった意味では
衝動を衝動のまま表すのが難しい。
というよりも、文字にした時点でそれは衝動たり得るのだろうか。

旅の妖精 : 06-01-29 0:03 [1]

2006:01:30:04:00:39

衝動を言葉にするといえば、やはり自動筆記でしょうか。
アンドレ・ブルトンが「思考の写真」と呼んだ、シュルレアリスムの一技法です。

「理性も意識も介在できない状態で、偶然できたものの中から、本物の現実が立ち現れる」

主張や試み自体は支持できるのですが、結局自動筆記は廃れてしまいましたね。
正直、読んでも全然面白くない。


文章は解釈の分野でしか活躍できないのかもしれません。
あくまで感情の説明、現象の説明、論理の説明、全てが位相を異にしたメタ視点。

どのみちアドリブ以外の表現は何かの再構築に過ぎないのだと、最近はそのように割り切り始めています。

アタッカー : 06-01-30 4:00 [2]




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