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Round Table

ミスター・ノーバディ(2009)

 むかしむかし1993年ごろに、フジテレビ系列で『if もしも』というオムニバスドラマが放送されていた。前番組『世にも奇妙な物語』と同様タモリが語り手を務めていたが、各話ともストーリー半ばで主人公が二者択一を迫られ、二通りの結末がそれぞれ描かれるという構成だった。たいていハッピーエンドとバッドエンドの組み合わせだったように思う。
 16話目「打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?」を脚本・演出した岩井俊二はテレビドラマながら異例の日本映画監督協会新人賞を受賞し、同作は1995年に映画化、2017年にアニメ映画化される。内容は忘れたがドラマ版の雰囲気(フィルム効果が使われていた)だけは何となく覚えていて、とにかく奥菜恵が可愛かった。元がノスタルジックな作風だけに後から郷愁を憶えるのも簡単で、リアルタイムで観ていた者にとってはひと夏の思い出と化していても不思議はない。しかし作品の鑑賞はどこまで自身の体験として語り得るのだろうか。
 映画『ミスター・ノーバディ』(https://www.netflix.com/title/70117580)は死にかけの老人がインタビューに応じて思い出を振り返る話だが、人生の岐路ごとに生じた複数の世界線が並行して語られるため支離滅裂である。何が本当なのか、どこからが誰の妄想なのかよく分からない。語り手自身はどれも真実なのだと多元宇宙論的に言い張るが、かくいう本人も実在せず、全ては両親の離婚に際してどちらと暮らすか選択を迫られた少年が思い描いた空想の産物なのだという。そうして少年に想定されなくなった世界線はただちに崩壊を始め、時間の逆行とともに失われた可能性たちが舞い戻ってくる。いやいや、9歳児にそこまでの読み筋は無理だろいい加減にしろよと思ったが実は天才棋士だったのかもしれない。または序盤に自己申告していた通り、忘却の天使に素通りされながら生まれてきた予言者なのかもしれない。
 私はこの映画の正解探しを早々に諦め、筋書きの枝葉がそれぞれある様を花見のように漫然と眺めた。温かい音楽がたくさんあったし、映像美とりわけ人間のイマジネーションをテーマに作られたものはそれだけで十分楽しめた。そういえば『落下の王国』なども絵の一枚ずつを眺めただけで満足してしまい、作中作の筋が荒いのはともかく子どもの空想が妥協なく描かれていて素敵よねと溜息をついた記憶がある。たぶんこうした映画の見方はアイドルや仏像を見に行く感覚と大差なく、もちろん絵の美しさにとっても文脈の存在は欠かせないが、全体の筋書きというよりは個別の演出を楽しんでいる。本作については色調による世界線の描き分け方も良かったが、特に音楽が気に入った。
 劇中でたびたび流れるバディ・ホリーの「エブリデイ」は映画『スタンド・バイ・ミー』でも使用されていたし(https://youtu.be/j0vzgFA85bs)、ザ・コーデッツの「ミスター・サンドマン」はフォー・エイセスの歌ったものが『バック・トゥ・ザ・フューチャー』で使われていた(https://youtu.be/WY2w2-CAKgM)。どちらも80年代アメリカ映画で偲ばれた50年代アメリカのヒットソングなので、懐古と再生を象徴する曲として特別な意味を持つのだと思う。
 他にもメラネシア音楽の「神よ、我が人生」は『シン・レッド・ライン』で使われていたし(https://youtu.be/oUEJFp9L7-4)、ピクシーズの「ホエア・イズ・マイ・マインド?」は『ファイト・クラブ』のエンディング曲だった(https://youtu.be/E1d5VvCa8Fo)。どちらも今回主演のジャレッド・レトが出演していた作品なので、それとなく過去を彷彿させるような効果を狙っていたと思うが、さすがにこれはこじつけ過ぎかもしれない。
 ちなみに本作のテーマは人の自由意志の儚さであり、最後まで環境に翻弄されたルート(赤:アンナ)だけがハッピーエンドへたどり着いていた。自力で掴み取るもコントロールしきれなかったルート(青:エリース)では不可抗力による終焉を夢想するようになり、計画通りに目標を達成したルート(黄:ジーン)では衝動的に偶然へ身を委ねて命を落とす。少々極端ではあったが、意志の力に責任を負わせることの危険性が描かれている。
 人生の岐路には様々な可能性があるように見えながら、必ずしも選択の自由は存在していない。結果の変わらない選択肢も数多くあるし、最も重要な局面がバタフライ効果で覆されることもある。だからこそ過去を悔やむことには意味が無い。
 劇中では劇作家テネシー・ウィリアムズの台詞が引用されていた。

 " Every path is the right path. Everything could've been anything else. And it would have just as much meaning."
 どの道も正しい道だった。人生には他のどんなことも起こり得ただろう。それらには同等の意味があったはずだ。

 私のように優柔不断なモラトリアム人間が聞くと勇気の湧いてくる言葉だが、どんな出来事にも同等の意味があるということは、全て同等に意味が無い恐れもある。映画冒頭で示されるハトの迷信行動のように、私たちは自分の意思で未来を決めているようでありながら、因果性の乏しい事象に日々を束縛されているのかもしれない。

18-01-03 15:00 , 感想 , Commentaires (0) ,

雑がみは大切な資源です

 古いおみくじが出てきたのでレシートと一緒にスキャンして捨てた。自宅の紙類を山ほど電子化しているが、処分対象は個人的な記録や思い出に留まっており、他人の刊行物まで恣意的に裁く余裕は今のところ無い。
 こっそり段ボール箱を開けると、物語性を帯びた中学時代のイラスト、作りかけたRPGの舞台設定、覚えようとした歌詞の対訳、数小節だけ手書きされた自作の五線譜などが現れ、一目見るなり思考が止まって反射的な独り言が飛び出す。
 咳払いをして近代編へ移ると、覚えようとした格言の原文、バイト中に書きためた何かのプロット、印刷理由の不明なソースコード、水増しを重ねた馬鹿丸出しの卒論原稿などが姿を見せるので、白目を剥いて仰け反ったあと痙攣しながら地に伏して仮想の血反吐を撒き散らす。
 そうした呪いの品々は我ながら不気味に感じられるほど物持ち良くファイルされ、転居のたびに持ち運ばれて、健やかなるときも病めるときも共にあった。捨てられなかった理由は二つある。
 まず、いつかどこかで使えるかもしれないというモラトリアム頼みの貧乏性があった。手放すことはいつでもできるし、何かきっかけ作りのひとつに取っておいても良かろう、といった甘言を毒キノコいっぱいの草葉の陰から誰かが囁く。保留によって生き続ける未来、未来を確かめない自由、自由の楽しめる状況を擬似的にも作り出そうとする即席の創造性。なぜ結婚したのかは不明だが、無計画な未読本の山に今なお変わらぬ本性が窺える。世界には文化的な不倫も存在すると思う。
 次に、媒体一般に対する信仰心があった。文書は思想と感情を再生して人智に一貫性をもたらす。人類はマルチタスクから逃れ得ず、言語論的転回によるコンテキストスイッチの最適化がカルマ清算へ至る正道なのだと、誰かが頭の中へ直接語りかけてくる。現時点に価値を復元できないというだけの理由でデータを間引くことは、言語資源へ対する冒涜ではなかろうか。
 しかし邪魔なので全て燃えるごみに出した。一定の空白期間が生まれると元のセーブデータから再開する気持ちは無くなるし、単に領域を圧迫するだけの物体は使用済のティッシュと変わらない。娘の生活圏を脅かすものには消えてもらう。
 仮想の血反吐を掃除し続けるうち、少しずつ思い出の扱い方にも慣れてきた。黒歴史と向き合う際は当時の自分になりきって、そのとき憧れていたものだけを思い出すと良い。楽しかった思い出、格好良かった人たち、好きだったもののことだけを考える。それは現在の自身にとっても活力となり、多少なり若返る場合さえある。どうせ他人の大多数が毎日ごみを量産しながら自己満足に生きているのだ。値札の付いたごみや額に入れられたごみだって山ほどある。それをわざわざ自分に見出して恥じたり、気に病んだりしてしまうのは、あなた自身が真面目な人間である証左に他ならない。

17-08-10 15:00 , 日誌 , Commentaires (0) ,

ここには何もありません

 何を伝えたいのか訊かれる機会はたびたびあったが特に何も無いというのが本音で、私はただ自分の手足が自分の意思で動く様を暗闇のなか観察している。我思う故に我在りと我思うが、その在り方にはどんな確証も存在しない。
 むかし山奥で野外泊したとき暗闇に飲み込まれそうになった。薄もやに覆われた広大な湖畔の夜、懐中電灯は一筋の光線を成すばかりで、一歩ずつ足の踏み場を確かめるのが精一杯だった。行く手に手探りのあては無く、月の在りかも自分の居場所もよく分からない。照らされるものが無ければ光は役に立たないのだ。
 立ち止まって明かりを消すと、周囲が全くの無音であることに気がついた。多少なり星影の現れることを期待したが見渡す限り天も地も無い。一切は無限遠の暗闇であり、ただ現在地に暗闇を吸っては吐き出す場違いな袋が浮かんでいる。試しに呼吸も止めてみると脈拍だけが居残って、何を思わずともだんだん息苦しさの募る故に我在りと我思う。
 次第に目を開けているのか閉じているのか分からなくなり、手足の所在が不明瞭になって、意識が宙に溶け出していくのを感じた。舞台が暗転すると非常灯や観客が目について現実へ引き戻されることがあるが、夜の山中では暗闇こそが現実だと思い知るのだった。日に照らされた場所は特殊な環境であり、夜空が宇宙の本来の姿であって、星や生物の内部もまた暗闇の中に成立している。万物は遅かれ早かれ暗闇に没して在りし日の面影を失う。花火のように咲いては消えるのが自然の成り行きであって、その点に恐怖や諦めの気持ちは湧いてこない。全ては暗闇の内に含まれている。
 そうして浸透圧差の無い虚空を漂いながら、海底に佇む三脚魚のことを考えた。次いで、彼らが発見されなかった場合の世界について想像した。人間が魚のことを考えているのか、魚が人間のことを考えているのか定かでないが、どちらであっても違いは無いように思えた。おそらく相手は空想上の何かであっても構わない。三脚魚の実在も自分で確かめたことは無い。
 世界はレスポンシブにデザインされていて、閲覧する側が形や量を決めている。誰もいない森の中で木が倒れても音はしないし、箱の猫の生死は最初の観測者が決めている。だが最後の観測者の生死は誰が決めるのだろう。最後の一人となった時点で死んでいるのだろうか。
 この暗闇を思い出すとき、自分はいつでもここに戻ってこられると思った。差分を取るため誰かれ構わず巻き添えにすることがあるかもしれない。だがそのとき私たちは、何者にもなり得るだろうと信じている。

17-07-20 9:30 , お話 , Commentaires (0) ,