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Round Table

雑がみは大切な資源です

 古いおみくじが出てきたのでレシートと一緒にスキャンして捨てた。自宅の紙類を山ほど電子化しているが、処分対象は個人的な記録や思い出に留まっており、他人の刊行物まで恣意的に裁く余裕は今のところ無い。
 こっそり段ボール箱を開けると、物語性を帯びた中学時代のイラスト、作りかけたRPGの舞台設定、覚えようとした歌詞の対訳、数小節だけ手書きされた自作の五線譜などが現れ、一目見るなり思考が止まって反射的な独り言が飛び出す。
 咳払いをして近代編へ移ると、覚えようとした格言の原文、バイト中に書きためた何かのプロット、印刷理由の不明なソースコード、水増しを重ねた馬鹿丸出しの卒論原稿などが姿を見せるので、白目を剥いて仰け反ったあと痙攣しながら地に伏して仮想の血反吐を撒き散らす。
 そうした呪いの品々は我ながら不気味に感じられるほど物持ち良くファイルされ、転居のたびに持ち運ばれて、健やかなるときも病めるときも共にあった。捨てられなかった理由は二つある。
 まず、いつかどこかで使えるかもしれないというモラトリアム頼みの貧乏性があった。手放すことはいつでもできるし、何かきっかけ作りのひとつに取っておいても良かろう、といった甘言を毒キノコいっぱいの草葉の陰から誰かが囁く。保留によって生き続ける未来、未来を確かめない自由、自由の楽しめる状況を擬似的にも作り出そうとする即席の創造性。なぜ結婚したのかは不明だが、無計画な未読本の山に今なお変わらぬ本性が窺える。世界には文化的な不倫も存在すると思う。
 次に、媒体一般に対する信仰心があった。文書は思想と感情を再生して人智に一貫性をもたらす。人類はマルチタスクから逃れ得ず、言語論的転回によるコンテキストスイッチの最適化がカルマ清算へ至る正道なのだと、誰かが頭の中へ直接語りかけてくる。現時点に価値を復元できないというだけの理由でデータを間引くことは、言語資源へ対する冒涜ではなかろうか。
 しかし邪魔なので全て燃えるごみに出した。一定の空白期間が生まれると元のセーブデータから再開する気持ちは無くなるし、単に領域を圧迫するだけの物体は使用済のティッシュと変わらない。娘の生活圏を脅かすものには消えてもらう。
 仮想の血反吐を掃除し続けるうち、少しずつ思い出の扱い方にも慣れてきた。黒歴史と向き合う際は当時の自分になりきって、そのとき憧れていたものだけを思い出すと良い。楽しかった思い出、格好良かった人たち、好きだったもののことだけを考える。それは現在の自身にとっても活力となり、多少なり若返る場合さえある。どうせ他人の大多数が毎日ごみを量産しながら自己満足に生きているのだ。値札の付いたごみや額に入れられたごみだって山ほどある。それをわざわざ自分に見出して恥じたり、気に病んだりしてしまうのは、あなた自身が真面目な人間である証左に他ならない。

17-08-10 15:00 , 日誌 , Commentaires (0) ,

ここには何もありません

 何を伝えたいのか訊かれる機会はたびたびあったが特に何も無いというのが本音で、私はただ自分の手足が自分の意思で動く様を暗闇のなか観察している。我思う故に我在りと我思うが、その在り方にはどんな確証も存在しない。
 むかし山奥で野外泊したとき暗闇に飲み込まれそうになった。薄もやに覆われた広大な湖畔の夜、懐中電灯は一筋の光線を成すばかりで、一歩ずつ足の踏み場を確かめるのが精一杯だった。行く手に手探りのあては無く、月の在りかも自分の居場所もよく分からない。照らされるものが無ければ光は役に立たないのだ。
 立ち止まって明かりを消すと、周囲が全くの無音であることに気がついた。多少なり星影の現れることを期待したが見渡す限り天も地も無い。一切は無限遠の暗闇であり、ただ現在地に暗闇を吸っては吐き出す場違いな袋が浮かんでいる。試しに呼吸も止めてみると脈拍だけが居残って、何を思わずともだんだん息苦しさの募る故に我在りと我思う。
 次第に目を開けているのか閉じているのか分からなくなり、手足の所在が不明瞭になって、意識が宙に溶け出していくのを感じた。舞台が暗転すると非常灯や観客が目について現実へ引き戻されることがあるが、夜の山中では暗闇こそが現実だと思い知るのだった。日に照らされた場所は特殊な環境であり、夜空が宇宙の本来の姿であって、星や生物の内部もまた暗闇の中に成立している。万物は遅かれ早かれ暗闇に没して在りし日の面影を失う。花火のように咲いては消えるのが自然の成り行きであって、その点に恐怖や諦めの気持ちは湧いてこない。全ては暗闇の内に含まれている。
 そうして浸透圧差の無い虚空を漂いながら、海底に佇む三脚魚のことを考えた。次いで、彼らが発見されなかった場合の世界について想像した。人間が魚のことを考えているのか、魚が人間のことを考えているのか定かでないが、どちらであっても違いは無いように思えた。おそらく相手は空想上の何かであっても構わない。三脚魚の実在も自分で確かめたことは無い。
 世界はレスポンシブにデザインされていて、閲覧する側が形や量を決めている。誰もいない森の中で木が倒れても音はしないし、箱の猫の生死は最初の観測者が決めている。だが最後の観測者の生死は誰が決めるのだろう。最後の一人となった時点で死んでいるのだろうか。
 この暗闇を思い出すとき、自分はいつでもここに戻ってこられると思った。差分を取るため誰かれ構わず巻き添えにすることがあるかもしれない。だがそのとき私たちは、何者にもなり得るだろうと信じている。

17-07-20 9:30 , お話 , Commentaires (0) ,

文化テロル

そんなわけでGW中は客人を迎えたり絵を眺めたりしていた。たまには普通の日記も書こうと思う。

あらかじめ断っておくと私は普通の日記をウェブ上にばらまくという行為が嫌いで、個人的な毎日の記録などは玉石混淆のウェブ情報をさらに混濁させるだけのうんこだと思っている。うんこは一人で始末すべき、せめてSNSで蓋をすべき、セマンティックウェブよ早く濾過機能を、と考えている。たぶん、他人との親睦云々よりも読書の延長、議論の場としてウェブを扱っているせいだろう。誰が書いているかよりも、何を書いているかの方を重視している。
だが最近はTwitterの影響もあって、何気ないうんこの波にも価値を見いだせるようになってきた。今や世界中の個人の営みをリアルタイムで追える時代、そこに溢れているのは全て人類の生きる姿、余計な偏見が減って世界平和に近づくかもしれないな、と感慨深くなった辺りで気分が悪くなり、排泄物に例えたことを後悔し始めた。以後うんこを土壌ルネサンスと呼ぶ。

とはいえ、かたや芸術とかエンタメとか呼ばれる美文名文も、みんな排泄物の範疇なのだろうとは思う。そこへ周囲が勝手な付加価値を見いだしているだけなのだろうと。
そしてどの土壌ルネサンスが、やっぱりうんこでいいやどのうんこが、他者の糧へと昇華するのかはその時になるまで分からない。毎回隠れファンを励ましているかもしれないし、一億と二千年あとに発掘されて博物館に碑文で飾られるかもしれない。
果たして気晴らしのチラ裏日記は、どの水準から読み手側の気晴らしにもなりうるのだろうか。結局は相性次第だろうか。少なくとも本人の文体練習にはなっているわけで、皆が好き放題に路上ライブするぐらいの有益性はありそうだが。
玉石混淆の石の部分も、実は全て何かの原石なのかもしれない。

 

前置きの方が長くなったが、こうした打算的な自分への戒めも込めて春の院展を鑑賞してきた。院展は日本絵画珠玉の殿堂である。
素晴らしいとされている絵は、果たしてどれほど素晴らしいのか。
結論から言えば大変素晴らしかったわけだが、技術面のことはよく分からない。とりあえず空気の変え方が違ったと思う。
題名だけ並べると、山好きとしては『対岸の冬』、汚れた二十代としては『夜空に夢』、花泥棒的には『惜春』などが特に効いた。あとは『海しぐれ』に吹く向かい風、『葉音』から溢れる樹のざわめき、『花のかげに』の巧みな視線誘導などが印象深かった。というより、いま題名がうろ覚えなだけで大体の作品が印象深かった。

6年前に訪れたときは「さすがに皆さん上手だな」ぐらいにしか思わなかったが、私も大学生活を経て大体の空気を読める子に育ったようだ。絵画や書といった静的な視覚情報は、観客が自らの変遷をたどるのに最適だと思う。見る者の思い出の数によって絵の価値は大きく変わる。院展の入場客がご年配の方ばかりであったのも、決して秋田が田舎なせいばかりではない。そして秋田も別にそこまで田舎ではないし、日本一四季のはっきりした美しい県なのでみんな早く引越してくれば良い。

ちなみにGW中、他県の人たちを迎えたときは何故かその日だけ土砂降りでおすすめ店舗も満員、なんら地元の良いところをアピール出来なかった。今度誰か来たら太平山でも縦走させようと思っている。

08-05-09 23:45 , 日誌 , Commentaires (6) ,