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Round Table

印象派の思い出

 何気ない一言が人を生かしも殺しもするから、なるべく誰かを救うような言葉を探したい。不意にフラッシュバックさせるならクソみたいな応対に費やした場面ではなく美しい音楽、展覧された美術、それらを一緒に眺めた誰かの横顔、ただし思い出は今ある自分自身の一部に過ぎず、過去はどこにも存在しない。今あるものは全て変えられる。
 平日の私は非常に徳の高い聖人であるため、社会経験があることを利用しながら真顔で根拠も無く若者を褒めたり、手の施しようが無い相手を都合の良い解釈で励ましたりしている。絵空事を通すには自らそれを真実だと信じ込むこと、先手を打って外堀にも種を蒔いておくこと、そしてあまり厳密さにこだわらず、相手の消化しやすい物語で妥協すること。いちど共有されたイメージは検証を待たずに人々を動かし、好循環のうちには駒の出そうな瓢箪もできる。秘密裏に仕組んだピタゴラ装置の成功を見届け、その存在すら悟らせずに撤収できたとき、私の承認欲求は成仏するだろう。何かを育てることはとても楽しい。
 近く死ぬ予定は無いが、不意にエンドロールが流れても取り乱すことの無いよう、試せる思いつきは一通り試しておいた方が良いと思っている。走馬灯もなるべく普段から回しておいた方が良い。私たちはすでに全てを手に入れていて、そこから自分の好きなものを正解にできる。周りに期待する必要は一切無いし、まだここにない出会いは無いままで構わない。あれば誰かが死んでいた恐れも増すはずだが、競争社会ではここにない何かのポジティブな面ばかりが強調される。そして情報社会では一部が信奉する一流の理想論へ簡単にアクセスできるため、そこへ合致しない自分を卑下してしまう真面目な人間が続出する。しかし理想は成就しないのが普通だ。たいてい道半ばで死ぬし成仏しない。私たちはいつかどこかへ到達するよう知らぬ間に刷り込まれてしまうが、その意識が誰に掛けられた呪いなのかをときどき省みる必要がある。そう言われて本当に省みる必要があるのかも省みる必要がある。
 前述のピタゴラ装置は他人から無断で搾取するのに適しているため、もっぱら身勝手な大義を掲げた大人たちに悪用されているようだ。世の中は私のような有徳のイケメン文化人ばかりではない。金も払わずに誰かの時間を奪い、さも本人の意思で差し出されたかのような印象を振りまく詐欺が横行している。反論を無粋に見せる美しい物語の濫用、弱者の自己犠牲に乗じなければろくに収益も上げられないセンスの無さ。仮にあなたの望む有能な若者が実在したとして、なぜ彼らがあなたのために尽くさなければならないのか。何か勘違いしているのではないか。
 不意にフラッシュバックさせるならクソみたいな応対に費やした場面ではなく美しい音楽、展覧された美術、美術館の品々を少し離れて眺めると、ひとつひとつの関係性が僅かながら見えてくる。無論そのように配置されているためでもあるが、知りたい事物に対しては複数の距離を使い分けるのが効果的だ。私たちの日常はインスタントな勝ち負けや損得勘定が幅を利かせた無間地獄にあるので、ときには意味も無く山を歩いたり、目的意識を抱かず美術館へ向かわなければならない。そして現場で見たくなったものだけを眺めて帰る。できれば未就学児にも同伴いただいて、その忌憚なき振る舞いを見学させてもらう。子どもは巨匠も順路も無視して走り去ろうとするが、ときどき作品と同じポーズを試みたり、描かれていないはずの動物の影を見出したり、持参の双眼鏡を逆さに覗いて館内を見渡したりする。非常にうらやましい。大人も負けじと同じ表情を試みたり、どのような物語の挿絵になるのかを捏造したりする。私たちは何に悩むべきかを自分自身で決めて良い。好きなときに好きな問題へ取り組めば良いのだ。
 下界へ戻ったあと改めて打算的に考えてみても、ただ脳裏の苦しみをリピート再生している時間は大変もったいない。どうせ何かを思い出すなら後続のための道標を残したり、そもそもの危険物を淘汰できるようなピタゴラ装置を開発した方が楽しいのではないか。不安の尽きることは無いが敢えて真理の追究にはこだわらず、いま手の届く悪から順に滅ぼす。汚物は消毒だ。私たちの苦労は、後の者が同じ苦しみを背負わずに済んだとき初めて報われる。
 いま私は恐ろしくホワイトな環境で公私ともに恵まれながら人畜無害な紳士を演じているが、ときどき原因不明の虚無感に襲われて身動きできなくなることがある。周囲に何ら興味も楽しみも見出せず、先々をイメージする力が根こそぎ奪われたかのようだ。過去を忘れたつもりの当人も結局はその蓄積から構成されているのだろう。湖底で何かが起こるたび沈殿物が舞い上がって辺りを暗く濁らせる。その正体を捕捉できるまで静かに待ちたいが時間は何も解決しない。むしろ次の平日が迫り来る閉塞感から何も手に付かず夜も眠れなくなる。それでも根は真面目で大変優秀な人材だから朝になれば職場へ向かい、汎用ご親切マシンとなって勤勉に働いてしまうのだ。ショートコント出勤。優しい方の職員。親切だと言われれば嬉しくなるが、親切はファッションだから自己満足でも構わない。それを下心の表れであると決めつけてしまう人もいるが、実感としては他人と会うための装備に過ぎず、偽善とさえも呼べないものだ。たぶん女性がメイクするのと変わらない。
 また明日から、他人のどのような態度を目の当たりにしても上手に解決できることを目指す大人を演じ続けることになる。みんなもがんばろうな。私の目標は、いつもにこにこしているが状況をきちんと理解できているのかどうか傍目にはよく分からないお年寄りになることだ。そして最期は、綺麗な湖を望むお花畑の住人として社会的に抹殺されたいと考えている。もう普通の願い事しか思いつかないので、みんなの夢を聞かせてほしい。

18-09-30 19:50 , 日誌 , Commentaires (0) ,

お花見雑感

 フィードリーダーがキャズムを越えられなかったのはRSSが2.0だったり一方Atomだったりと仕様がブレ続けたせいもあるけど、その受信設定を「購読(subscribe)」と表現したのが良くなかったんじゃないかと思う。購読しますかとポップアップされて躊躇なくYesできる人間なんて酔っ払いか田舎貴族ぐらいでしょう。無料のものにお金のかかるような印象だけ与えてしまって誰も得しなかったんです。
 Googleリーダーが終了したころ、すでにみんなの情報源はSNSが中心となっていて企業はレコメンデーションに躍起で、大人は何かとFacebookの勢いに焦っていた気がする。君も利用者の人脈に乗じた囲い込みで収益を安定化しよう。すきま時間を上手に盗んでロングテールビジネスにあやかろう。そうしてあるときブクログもPocketも(iPhoneミュージックさえも)ソーシャル機能みたいな何かを始めて急にインタフェースが改悪された。俺はびっくりした。交流などはやりたい場所で勝手にやるから今までの機能を今まで通り使わせてほしい。内部検索やブラウザ拡張を潰すようなアップデートはちょっと勘弁してください。しかしお金を払わないユーザーに人権は無いので、迫害されても黙って死ぬか自分がエンジニアになるしかない。子曰く学びて時にこれを習う、APIだって公開されてるしググれば誰でもそこそこいける、またよろこばしからずや。自己責任論が跋扈して友達のいない人間がどんどん生きづらくなっていくのはネット上でも変わらなかった。
 個人的な話をするとSNSに作ったのはテストアカウントや付き合いから生じた清廉なデコイばかりで、真面目に参加していたのは初期のmixiぐらいだったと思う。それも途中から観覧用に細工して活動実態はレンタルサーバ上の鍵付きCGIへと移していった。いつしかmixiはFacebookやTwitterの真似事を始めてアイデンティティを失い、顧客流出を招いた末にモンストで息を吹き返したそうだがスマホゲームの世界はよく知らない。休憩中に無心に遊んでいる方々を眺めて、俺も付加価値いっぱいの製品を広めて儲けられたら素敵だなあと思いながらぼんやり未読記事を仕分けていた記憶がある。本当はTumblrを眺めてぼんやりしたかったが不意に肌色の多い画像が流れてくるため職場では控えていた。
 記事の仕分けにはiPhoneアプリのReederを使ったが、気になった見出しをPocket宛にフリックするだけで本文は開かず全て既読にしていた。Pocketの中身は時間のあるときパソコンのブラウザから一度に開いて即閉じるか読んで閉じるか読んでEvernoteへ投げて閉じるかした。わざわざパソコンへ移動していたのは結局それがいちばん楽だったからで、特に拡張機能のAutoPagerizeで1記事を1ページにまとめてクリップできたのが良かった。複数URLに細切れされた記事読むのすごく面倒なんだけど、あれページビュー稼ぎ以外に何か理由あるのかな。最後のページなんて数行で終わったりプロフィールぐらいしか無かったりするよね。CMのあともまだまだ続くよとテロップ出しておいて続きが次回予告だけみたいなことをする人は早く捕まってほしい。
 話を戻すと俺もいよいよ美的実存から倫理的実存へ移るところだったので、禅的なデザイン思想に倣ってデジタル断捨離を図ったり、色々と試したら余計に散らかって面倒臭くなったので丸ごと放置したり忙しかった。フィード登録数もFeedlyやInoreaderへ移行しながらずいぶん減らしたが、それでもはてなブックマークの人気記事など含めているとみるみる未読数が増えていく。読まなければと思うとストレス源に転じてしまうため増えるに任せて気にしない。気にしないようにとも気にしないよう登録自体は残しておきながらわざと忘れるようにしている。煙草もここ数年吸っていないが特に禁煙しているわけではなく、用意しておきながら敢えて吸わないプレイがたまたま続いていることになっている。いつでもできるとなかなかやらないので、忘れたいものは距離を置くより背景になじませた方がいい。何かの歌詞みたいだな。
 しかし自分から何かを調べようとするとき、ブクマ数による評価の存在自体を無視することは難しい。俺は今でもGreasemonkeyのJapanese Popular SBM Count With Googleをあらゆる端末から使いたいと思っている。さっき余計なこと言ったせいで曲名みたいに見えてきた。昔は他人の好みなど関係無いように思っていたが、みんなの足跡に従えば予備知識の無い業界からも情報を拾いやすくなるため大勢の好みは侮れないのだった。少なくともSEO対策ばかりの画一的で内容スカスカなサイトを掴まされるよりは健康的だろう。花見会場も美味い出店には行列ができているし、インスタ映えする隠れスポットは露骨な人だかりが発生して傍目に分かりやすくなっている。把握している限りではどれもだいたい正解で、みんなが真面目に正しく情報共有しているような印象を受ける。たまに独りで峻厳な地形を攻めているおじさんなど見かけるとブクマ1の発掘記事みたいでかえって期待してしまう。
 可視化された群衆(とされる何か)の影響を受けずに済む日は無くなってしまい、それが誰かのステマであるかどうかを気にしてしまうときりがない。サクラは古典的ながらますます普遍的な手段であって、干渉されたくなければ電波の届かない場所におられるか出家するしかないだろう。ただし祭りに際しては損得勘定を抜きに乗ってしまった方が満足できることもあって、商業的には絶えず祭りを仕掛けられる者が勝ち残るのだろう。独り善がりに終始しがちなフィードリーダーを捨てて、ソーシャルフィルターに注力したGoogleの方針はきっと正しかったに違いない。肝心のGoogleプラスは流行っていないが応援している。
 俺はリテラシーの高い消費者だったがあくまで消費者に過ぎなかった。当事者意識は自分の持ちたい場所で持てば十分だし、大抵の問題は他人事のままで構わない。本当は情報の取捨選択なども早くAIに丸投げしたいと考えている。嗜好や重要度を熟知した何者かが良い感じに要約したデータを持ってきてくれる「あとで読め」サービス。まあそれは新聞ですね。とりあえず適当なキュレーションアプリでも使えば良いのだろうが、油断しているとすぐ賞金ゲームとかクーポンとか始まるのでちょっと引いてしまう。情報を薦めてくれるサービスを全て集約しつつ重複を弾いて最適化できるような仕組みがあれば有料でも構わないと思っていたが、そういう広告機会の減りそうなものは私企業に期待できないので、やっぱりPlaggerやIFTTTについて調べて各自でがんばるしかないのかもしれない。でも俺は一切がんばりたくないし道具に使われる時間を減らしたい。最終的には文章を読むことすら機械に任せて勝手に知見のようなものを蓄積してもらい寝ている間に脳へ直接インストールしたい。それが可能となるまでは無知ゆえに自由を失う現実があることを自覚せず、自分の好奇心を欺きながら生き続ければ大丈夫だ。見えない分身たちが知らない場所で崇高な作業を進めているつもりになって、Tumblr以外のアカウントを全て放棄する。そうしたら引退して、海岸近くの小さな村に住んで、日が高くなるまでゆっくり寝て、日中は釣りをしたり、子どもと遊んだり、奥さんとシエスタして過ごして、夜になったら友達と一杯やって、ギターを弾いて、歌をうたって過ごすんだ。どうだい。すばらしいだろう。

18-05-05 21:30 , 日誌 , Commentaires (0) ,

ミスター・ノーバディ(2009)

 むかしむかし1993年ごろに、フジテレビ系列で『if もしも』というオムニバスドラマが放送されていた。前番組『世にも奇妙な物語』と同様、タモリが語り手を務めていたが、各話ともストーリー半ばで主人公が二者択一を迫られ、二通りの結末がそれぞれ描かれるという構成だった。たいていハッピーエンドとバッドエンドの組み合わせだったように思う。
 16話目「打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?」を脚本・演出した岩井俊二はテレビドラマながら異例の日本映画監督協会新人賞を受賞し、同作は1995年に映画化、2017年にアニメ映画化される。内容は忘れたがドラマ版の雰囲気(フィルム効果が使われていた)だけは何となく覚えていて、とにかく奥菜恵が可愛かった。元がノスタルジックな作風だけに後から郷愁を憶えるのも簡単で、リアルタイムで観ていた者にとってはひと夏の思い出と化していても不思議はない。しかし作品の鑑賞はどこまで自身の体験として語り得るのだろうか。
 映画『ミスター・ノーバディ』(https://www.netflix.com/title/70117580)は死にかけの老人がインタビューに応じて思い出を振り返る話だが、人生の岐路ごとに生じた複数の世界線が並行して語られるため支離滅裂である。何が本当なのか、どこからが誰の妄想なのかよく分からない。語り手自身はどれも真実なのだと多元宇宙論的に言い張るが、かくいう本人も実在せず、全ては両親の離婚に際してどちらと暮らすか選択を迫られた少年が思い描いた空想の産物なのだという。そうして少年に想定されなくなった世界線はただちに崩壊を始め、時間の逆行とともに失われた可能性たちが舞い戻ってくる。いやいや、9歳児にそこまでの読み筋は無理だろいい加減にしろよと思ったが実は天才棋士だったのかもしれない。または序盤に自己申告していた通り、忘却の天使に素通りされながら生まれてきた予言者なのかもしれない。
 私はこの映画の正解探しを早々に諦め、筋書きの枝葉がそれぞれある様を花見のように漫然と眺めた。温かい音楽がたくさんあったし、映像美とりわけ人間のイマジネーションをテーマに作られたものはそれだけで十分楽しめた。そういえば『落下の王国』なども絵の一枚ずつを眺めただけで満足してしまい、作中作の筋が荒いのはともかく子どもの空想が妥協なく描かれていて素敵よねと溜息をついた記憶がある。たぶんこうした映画の見方はアイドルや仏像を見に行く感覚と大差なく、もちろん絵の美しさにとっても文脈の存在は欠かせないが、全体の筋書きというよりは個別の演出を楽しんでいる。本作については色調による世界線の描き分け方も良かったが、特に音楽が気に入った。
 劇中でたびたび流れるバディ・ホリーの「エブリデイ」は映画『スタンド・バイ・ミー』でも使用されていたし(https://youtu.be/j0vzgFA85bs)、ザ・コーデッツの「ミスター・サンドマン」はフォー・エイセスの歌ったものが『バック・トゥ・ザ・フューチャー』で使われていた(https://youtu.be/WY2w2-CAKgM)。どちらも80年代アメリカ映画で偲ばれた50年代アメリカのヒットソングなので、懐古と再生を象徴する曲として特別な意味を持つのだと思う。
 他にもメラネシア音楽の「神よ、我が人生」は『シン・レッド・ライン』で使われていたし(https://youtu.be/oUEJFp9L7-4)、ピクシーズの「ホエア・イズ・マイ・マインド?」は『ファイト・クラブ』のエンディング曲だった(https://youtu.be/E1d5VvCa8Fo)。どちらも今回主演のジャレッド・レトが出演していた作品なので、それとなく過去を彷彿させるような効果を狙っていたと思うが、さすがにこれはこじつけ過ぎかもしれない。
 ちなみに本作のテーマは人の自由意志の儚さであり、最後まで環境に翻弄されたルート(赤:アンナ)だけがハッピーエンドへたどり着いていた。自力で掴み取るもコントロールしきれなかったルート(青:エリース)では不可抗力による終焉を夢想するようになり、計画通りに目標を達成したルート(黄:ジーン)では衝動的に偶然へ身を委ねて命を落とす。少々極端ではあったが、意志の力に責任を負わせることの危険性が描かれている。
 人生の岐路には様々な可能性があるように見えながら、必ずしも選択の自由は存在していない。結果の変わらない選択肢も数多くあるし、最も重要な局面がバタフライ効果で覆されることもある。だからこそ過去を悔やむことには意味が無い。
 劇中では劇作家テネシー・ウィリアムズの台詞が引用されていた。

 " Every path is the right path. Everything could've been anything else. And it would have just as much meaning."
 どの道も正しい道だった。人生には他のどんなことも起こり得ただろう。それらには同等の意味があったはずだ。

 私のように優柔不断なモラトリアム人間が聞くと勇気の湧いてくる言葉だが、どんな出来事にも同等の意味があるということは、全て同等に意味が無い恐れもある。映画冒頭で示されるハトの迷信行動のように、私たちは自分の意思で未来を決めているようでありながら、因果性の乏しい事象に日々を束縛されているのかもしれない。

18-01-03 15:00 , 感想 , Commentaires (0) ,